顕正会員は知らない真の功徳の意味と素晴らしさ

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顕正会員の頃は知る由もありませんでした。


私が顕正会を脱会して間もない頃、少しでも顕正会についての情報を得ようと毎日のようにインターネットで検索しておりました。
それが結果的に宗門で御授戒を受ける事に繋がるのですが、今回はそのきっかけの一つである「六根清浄の功徳」についてのお話です。

六根清浄

以下、引用が多くなりますがご了承ください。

仏法では、衆生の苦悩の原因を迷いの生命の根源である煩悩から引き起こされるものと解明しています。その衆生の迷いの生命を浄化し、悪い性<さが>を断ち切るという果報が、まさに「六根清浄」の功徳なのです。
 六根の「根」とは、草木の根に譬えられ、私たちの生命が周囲のものを取り入れたり、認識する能力のことで、眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根の六つの器官をいいます。

続いてそれぞれ「六根」とは・・・

    眼根とは、視覚能力・視覚器官。
    耳根とは、聴覚能力とその器官。
    鼻根とは、嗅覚能力とその器官。
    舌根とは、味覚能力とその器官。
    身根とは、触覚器官としての身体とその能力。
    意根とは、前の五根によって得られた内容を統合判断する思惟能力、または知覚

との事です。

この六根が煩悩に覆われていると、外界の事象を正しく認識できないばかりか、それにともなう行動も誤ったものとなり、苦しみの原因を作ることになるのです。

「六根が煩悩に覆われている」、つまり餓鬼界の欲望肥大の目で見れば、穏やかな生活よりも常に「カネ!カネ!」といった認識となりそのまま行動する事で自分が「カネ」に困るような結果となるといった所でしょうか。「ウシジマくん」に出てくるパチンコ依存症の人を想像してしまいました。

そういえば顕正会は常に「数字!数字!」にこだわるあまり人間性が欠如した大幹部が多かった気がします。

その他にも「怒り」「愚痴」「慢心」等も顕正会の中にはよく見受けられていましたね。→とある女子部幹部の仏弟子らしからぬホンネ

そして、日蓮正宗で正しく信仰していくとこの六根がどのように変化するのかについて

    眼根の功徳—すべての事象が明らかに見え、物事の因果を正確に知ることができる。
    耳根の功徳—あらゆる音声から、実・不実を聞き分けることができる。
    鼻根の功徳—あらゆる臭いを嗅ぎ分け、分別を誤ることがなくなる。
    舌根の功徳—勝れた味覚を持ち、さらにその声は深妙となり、聞く者を喜ばせることができる。
    身根の功徳—穏やかで健全な身体となり、外界の刺激に適合させ、自身を処することができる。
    意根の功徳—心は清らかに、頭脳は明晰となり、智慧が深くなる。

 すなわち、六根清浄とは六根にそなわる煩悩の汚れが払い落とされ、物事を正しく判断できる智慧を得ることをいうのです。
 たとえば目が不自由であったとしても、妙法受持の功徳によって、肉眼以上の慧眼・法眼・仏眼を得ることができるのであり、このような功徳は他の五根にもつうじていえることなのです。

実際に体験してみた

私事ですが、日蓮正宗で唱題を挙げて最初に感じた功徳が「御本尊様のお姿がハッキリと見える」事でした。
顕正会の会館にある御本尊はなぜか最前列の正面に座っても霞んで見えたり焦点が合わなくなったりしていましたが、この眼根の功徳を知って妙に納得がいきました。
ちなみに私以外にもそのような事例はモトケン界隈で聞いた事があります。

御授戒以来、日々の五座三座の勤行とお寺での唱題行に励んでおりますが、生活上・仕事上でも常に思考がスッキリと冴え「これが六根清浄の功徳なのか」と感激しています。
今後も更に励む中に自分自身が磨かれていくものと確信しますね!

顕正会を脱会した後、無宗教で過ごす期間が二年ちょっとありました。
やはり間違った信仰を捨てたと言っても、それまで積んでしまった罪障が消えるわけではありません。
もとの自分の宿業を背負った生活になります。むしろ罪障を積んでしまった分ツライ人生になると思います。
自分自身がそうでしたからね(;´д`)トホホ…

そこで勇気を出して真の仏法が実践できる宗門の寺院に足を運ぼうと決心したのです。
「自分の宿業を変えたい!六根清浄の功徳を頂きたい!」とその思いだけで行ってみて正解でした!

再来月には登山があります。先輩いわく「御開扉受けちゃったらもう人生勝ち組っすよ!」との事!
ありがたいですね!希望が湧いてきます!!
是非とも今後も出来得る限り精一杯信心を頑張っていこうと思います!

ではまた